草の根日記

主な関心事は仏教/自然/生命/瞑想です。一人言のように気楽に書いていきます。今この瞬間を見つめられますように。

2021/4/4

 

今、自分は戒律を護れているのだろうかという不安が心に生起こっています。生活していくなかで破ってしまいそうな(破っているかもしれない)とき、どう対応をしていくかが勝負どころですかね。😅

 

5:37

意見を述べるときは条件付きの意見であればあやまちを犯すことなく意見を述べられるので良いですね。

 

5:39

六重罪という罪が仏教にはあるんだけど、それを犯すことはとても恐ろしいな。

まぁ、六重罪だけでなく、小さな悪行為も犯さないように努力していくべきだとは思うので、常に懺悔の気持ちと慚愧の心を起こして生きようと思う私なのであった。

 

16:46

最近、何故か知らないんですけど、ツイートするときに何故か心の痛みを感じるときがあるんです。

今日は相手とやり取りしたときにその痛みを感じました。一体その痛みは何でしょうかね?どこから来るんでしょうかね?ひとつ言えることは"期待"があったのかもしれません。その期待が外れたときに痛みが現れているように感じます。

例えば、こんな返事をしてほしいとか、こういうリアクションをしてほしいとか。

どこまでもわがままな心ですね😅

 

19:05

私は気付きました。何故、人間関係において苦しみを抱えてしまっていたのか。何故、人を認識する過程で苦しみが起こるのかを。それは人間を常なるものと、実体のあるものとして認識していたからです。そこに、私の誤りがありました。それは邪見でした。それはそうで、私は自分のことさえも常なるものであると、実体(魂)があると潜在意識の中で信じてしまっていたからです。

 

19:33

嫌なものを受け入れたくないと思うのも、それを見ようとしないのも自我の錯覚、魂があると思い込んでいるためだろう。それはつまりは私は変わらない存在であると思い込んでいるためだろう。

 

20:32

そうか、相手の自我の錯覚が強くても、魂があると思い込んでいても真理としては無我なのでそれを主張してきたところで意味がないのかもしれない。ということは、相手の欲、怒り、嫉妬さえも自分にとっては意味のないことなのかもしれない。何故ならそれはすべて妄想だから。ただ、そこにあるのは無常・苦・無我なる現象であり、煩悩という現象はどこにもない。あるのは本人の心の上だけであるから事実でもない。ただ、事実としては煩悩によって苦しんでいる(煩悩に燃えている)相手がいるだけである。

 

21:53

自分で自分の身体、脳の居心地を悪くしてたことに気付いた。